
【#ラリー・バード /選手名鑑】一世代に1人のスーパースター (—NBA公式サイト)

インディアナ州のウエストバーデンで6人の兄弟姉妹の4番目(兄弟は三人、姉妹は二人)として生まれる。少年時代のほとんどを同州のフレンチリックで過ごした。二人の兄にバスケットボールの手ほどきを受け、町のホテルで働く黒人の従業員とプレーすることもあった。
地元フレンチリックのスプリングス・バレー高校在籍時、学年が上がるとともに頭角を現していった。4年生の時には1試合平均で30得点、20リバウンドを上げ、各地の大学からスカウトされるようになった。
format_quoteバードは他の平均的なNBA選手と比べて身体能力・運動能力には恵まれていなかった。しかし、正確な技術とゲームの流れを読む能力に長けていた。特に中距離・長距離シュート、リバウンド、パス(アシスト)の技術に秀でていた。リーグ屈指のスリーポイントシューターであり、肩にボールを担ぐような独特なフォームで、多くのシュートを沈めている。バードほどの長身でこれほどまでにオールラウンドな選手は、マジック・ジョンソンくらいしかいなかった。試合の展開を正確に把握していたため、セルティックスの監督を務めていたビル・フィッチは、カメラのように毎回試合中の各場面を脳に記録するという意味でバードに「コダック」のあだ名を与えた。
「一世代に1人くらい、本当にスーパースターと呼べるような選手が現れる。」ラリー・バードがそのような選手だった。
【NBA】ラリーバードという伝説
format_quoteスモールフォワードにしては大きい206cmの身長がありながらも跳躍力が著しく低く、ダンクシュートは助走を付けなければ満足に成功させることができなかった。走ることも苦手であり、足も遅かった。ルーキー時代には、ドリブルも利き手である右手でしかスムーズに突けず、そのドリブルも掌でひっぱたくような危なっかしいものだった。バードはNBA選手でありながら、バスケットボール自体が苦手のように思われていた。しかしバードは、尋常ではない情熱と闘争心、そしてたゆまぬ懸命な努力で徐々に眠っていた才能を覚醒させた。身体能力の低さを補って有り余るほどの、バスケットボールに必要なすべての技術を身につけた。鈍足ながらもコート上を必死に駆け回ってシュートチャンスをつくり出し、決定打となるシュートを幾度となく沈めた。バードはアウトサイドプレイを中心とする反面、ここぞという時には果敢にリバウンド争いに参戦し、ベストポジションでリバウンドをもぎ取っていた。ルーズボールにも怪我を顧みず飛び込んで行き、誰よりも必死に喰らいついていた。そのような激しい情熱を押し出すバードのハードなプレーは、観る者すべてを引き付けていた。
プレースタイル
【時代を築いたボストンの至宝】ラリー・バード『Legend Story』【NBA Rakuten】
format_quote驚異的な勝負強さを誇り、土壇場でチームを救うプレーが数多くあった。名将として知られ、ライバルレイカーズのコーチでもあったパット・ライリーは「もし試合を決める場面でシュートをまかせるとしたらジョーダンを選ぶが、自分の生死がかかった場面でシュートをまかせるとしたらバードを選ぶ」と語っている。スティール技術とディフェンスリバウンドにも長けており、NBAオールディフェンシブセカンドチームに3度も選出されている。一方で、チャールズ・バークレーのように「バードはディフェンスが苦手だ」と評する者もいた。リーグトップクラスの選手でありながら、バードの技術は年々向上した。利き手である右手と遜色なく使える左手のシュートは、プロ入り後に上達させた技術の一つである。1986年のポートランド戦では試合前に「少なくとも第3クオーターまでは左手でシュートする」とチームメイトに宣言し、左手のシュートだけで20得点を記録した(総得点は47点)。シーズンオフには、主に実家でトレーニングを行った。ルーキー時代には酷評されていたドリブル技術も向上し、バードのポジションはスモールフォワードでありながら、ドリブル技術とパス技術に長けているために実質的にはチームのポイントガードを務めていた。これは、ポイントガードの仕事をするフォワード、ポイントフォワードの先駆けといえる。ロバート・パリッシュ、ケヴィン・マクヘイル、そしてバードからなるセルティックスのセンターおよび二人のフォワードをNBA史上最高のフロントラインと評価する専門家も多い。
プレースタイル