【#上原浩治 /選手名鑑】日米通算100勝100セーブ100ホールド、ワールドシリーズ胴上げ投手

【#上原浩治 /選手名鑑】日米通算100勝100セーブ100ホールド、ワールドシリーズ胴上げ投手
event_note 2022/02/15 07:21
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体育教師になる夢を叶えるため大阪体育大学への進学に備える。結果は不合格であった。隣町の予備校(KEC近畿予備校)に通う傍らジムでトレーニングを積み、更に家計への負担を減らすために夜間は道路工事のアルバイトもこなした。この間の努力は「人生であれほど燃えた1年間はない」程だったという。 「野球ができなかった苦しさを思えば、打たれても野球ができるプロは辛くない。」と19歳当時の1年間を忘れないように巨人入団後及びMLB時代所属した4球団でも背番号は「19」を選択した

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基本的にフォーシームとフォークボールを軸に投げる。メジャー移籍前の巨人時代はこれにカットボールを混ぜて投げていた[47]が、メジャー移籍後からは前者の2球種以外の割合は低い[119]。最も特筆すべきはその制球力であり、奪三振が多く与四球が少ないピッチャーである。NPB10年間で奪三振率7.99(主にクローザーを務めた2007年は奪三振率9.58)、MLB8年間で奪三振率10.7、2013年においては自己最高12.2を記録する[120][121]。制球力を示す指標である奪三振を与四球で割るK/BBでは、生涯1000イニング以上投げた投手の中では日本プロ野球歴代最高となる通算6.68(2位は土橋正幸の4.61、3位は田中将大の4.50であり、上原の数値は突出している[122])[123]で、メジャーリーグでも2014年まで通算100イニング以上投げた投手の中で歴代最高の通算8.96を記録している[124]。日本での10年間の1549イニングで与四球数はわずかに206個。日本での通算与四球率は1.20で、「精密機械」と呼ばれた北別府学の1.90、小山正明の1.80といった、往年の名投手達の記録を大きく上回っている。また、本来はワンバウンドしやすいため暴投が多くなりがちなフォークピッチャーでありながら暴投も非常に少なく[125]、2018年までの20年間で僅か19個(NPBの11年で10個、MLBの9年で9個)しか記録していない。

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%8E%9F%E6%B5%A9%E6%B2%BB#%E9%81%B8%E6%89%8B%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E7%89%B9%E5%BE%B4

選手としての特徴

上原浩治 メジャーで評価される理由

上原 2013ワールドシリーズ第6戦

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テイクバックが小さく腕の振りが速いのが特徴で、ややトルネード投法気味のノーワインドアップのスリークォーターで投げる。この投球フォームは非常にスムーズで一見それほど特徴的には見えないが、投球動作の前半は腕が体の陰に隠れて見えない上に球持ちが非常に短いため、テイクバックからボールを離すまでの時間が短く、メジャーの多くの選手が「球の出どころが見づらい」と語り、速球を実際の球速以上に感じさせる「Deceptive(幻惑的)」な投球フォームと呼ばれている[124]。同僚の外野手ダニエル・ナバは、「見極める時間が無い」、「ど真ん中の速球が、投げられてから半分通過するまで判らない」と述べ、捕手のデビッド・ロスですら「投げた瞬間、ボールがストライクかどうかは高めに外れた時以外は判別できない」と述べている[135]。

投球フォームは、メジャーに来て肉離れで苦しんでいた時に、MLBの硬くて傾斜のきついマウンドに合わせジェイク・ピービーを参考にマウンドからジャンプするような投球フォームに変更することにより、太ももの負担を減らすと同時にボールの方に力を乗せるようにした[136]。

前述のように配球はフォーシームとフォークで半々であるが[119]、絶妙に投げ分けており、二球種を全く同じように投げられることは、上原の優れた長所である。対戦したヤンキースのライル・オーバーベイは「速球だけでなく、スプリッターも両サイドに投げ分ける。速球とスプリッターが同じような軌道を描くから、見極めるのが難しい」[124]と言う。スカウトの意見では「スプリッターが常に鍵」で、配球は制球力が上原の武器だと分析した

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%8E%9F%E6%B5%A9%E6%B2%BB#%E9%81%B8%E6%89%8B%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E7%89%B9%E5%BE%B4

選手としての特徴

上原 WBCでの一世一代のピッチング

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本人は「対戦相手に恵まれていただけ」と謙遜するが[147]、外国チームとの国際試合では大学時代から数えて通算25戦12勝0敗2セーブ、「国際戦負けなし」という無類の強さを誇る[149]。

1997年、大学3年夏に日本代表に選出され、第13回IBAFインターコンチネンタルカップの決勝でキューバ戦で、5回と1/3を投げて1失点と好投し、キューバの連勝記録を151でストップさせた[123]。

2003年、アテネオリンピックアジア予選では中国戦に先発し、7回1失点で勝利投手となった[150]。本戦では2登板で1勝0敗、防御率2.08[151]で銅メダル獲得に貢献。

2006年のWBCでは2次リーグ初戦のアメリカ戦で勝敗が付かなかったが5回1失点と好投し、対戦成績0勝2敗で迎えた準決勝・韓国戦でも7回無失点8奪三振と好投して勝利投手になるなど、大会2勝を挙げて日本の初制覇に貢献した。

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%8E%9F%E6%B5%A9%E6%B2%BB#%E9%81%B8%E6%89%8B%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E7%89%B9%E5%BE%B4

国際大会での活躍

1999 上原浩治 4 プロ入り初登板

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1999年は毎週日曜日に登板するという先発ローテーションが組まれていたため、「サンデー上原」と呼ばれた。前半戦で新人では37年ぶりの12勝を挙げるなど5月30日から9月21日まで、歴代4位タイとなる15連勝を記録。新人投手の記録としては1966年に堀内恒夫が記録した13連勝を33年ぶりに更新する。

10月5日のヤクルトスワローズとの最終戦では、すでに中日ドラゴンズの優勝が決まった後の消化試合であったため、注目はタイトル争いとなり、各チームに所属する松井秀喜が41本、ロベルト・ペタジーニが42本と、本塁打王を激しく争い[15]、松井が一貫して敬遠気味の四球で歩かされ続けた。ここで上原も、7回裏にペタジーニの3打席目を迎えたところでベンチからの敬遠の指示に従いストレートの四球で渋々歩かせたが、勝負できない悔しさからマウンドの土を思いっきり蹴り上げ、目に浮かんだ涙をユニフォームの袖で拭った[3][16]。なお、この年、ペタジーニを無安打に押さえ込んでいた上原は、1・2打席目では勝負して打ち取り[15]、9回の4打席目では再び勝負し適時打を打たれた。また上原自身も当時中日の野口茂樹と最多勝を争い、この試合に20勝目がかかっており、2失点完投勝利で20勝目を挙げた。

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%8E%9F%E6%B5%A9%E6%B2%BB#%E9%81%B8%E6%89%8B%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E7%89%B9%E5%BE%B4

巨人時代

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