【#桑田真澄 / プレイバック】桑田完封、甲子園の主役校が代わった名勝負!池田vs PL学園

【#桑田真澄 / プレイバック】桑田完封、甲子園の主役校が代わった名勝負!池田vs PL学園
event_note 2022/02/14 11:53
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1983年4月、PL学園高等学校に入学した。清原以外の同期では、松山秀明、今久留主成幸、内匠政博の3人がプロ入りしている。6月にレギュラー組に昇格。夏の甲子園に向けた大阪大会に背番号17番で清原、田口とともに1年生としてメンバー入り。「もし桑田を先発させて負けるようなことがあったら全責任はワシが取ろう。ワシも長いこと野球に関係して来たが、この試合は桑田や。これで負けたら、ワシは一切野球から足を洗おうやないか。」と中村へ桑田先発を進言。

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桑田らが入学する前のPL学園は、1981年、1982年と春のセンバツを連覇したが、夏は4年連続(1979年-1982年)で甲子園出場を逃しており、1983年のV奪回は至上命令だった[22]。この年のPLは投手陣が安定せず、中村順司監督は、市神港高校・報徳学園の野球部監督として春4回、夏4回の甲子園出場経験があり、神戸製鋼の監督として都市対抗野球でも優勝(1977年)した清水一夫を臨時投手コーチとして招聘する[23]。この清水が桑田の外野からの返球を見て、球の回転の良さに驚き[24][25]、「おい、凄いのがおるじゃないか。学年など関係ない。私が夏までに立派なピッチャーにしてみせる」[26]と発言し、桑田を投手に戻す。清水コーチのマンツーマンの指導が始まる[注釈 5]。清水は後に「下半身が発達していながら、その使い方を知らなかった。だから足腰、膝の使い方を教えた。それだけでよかったんです。腕のしなり、天性の肩の強さは惚れ惚れするほど。毎日、私が桑田の球を自ら受け、一日、一日成長してゆくのが手に取るように分かったものでした。球の切れ、伸び、変化球の絶妙な使い方、どれをとっても素晴らしかった。そして、どんな過酷なトレーニングにも泣きそうな顔をしながらついて来た、見事な意志の力。私を恩人と今も慕ってくれているが、私としては『この子を使わん手はない』とコーチとして考えただけのこと。」[27]と述懐している。

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%91%E7%94%B0%E7%9C%9F%E6%BE%84#%E9%AB%98%E6%A0%A1%E6%99%82%E4%BB%A3

高校時代

1983 桑田真澄 1 甲子園 夏 PL VS 池田

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初回池田打線に立て続けに良い当たりをされた時は背筋が寒くなり、「何回まで持つかな…」と思ったというが、すぐに「自分は1年生だし、元々打たれて当たり前。打たれても自分が悪いんじゃなく、あっちが偉いんや。」と気を取り直し、その後は味方のファインプレーにも助けられそのまま7-0と完封。1-0でリードの二回裏の二死二塁でバッターボックスに立った桑田は、「ホームラン以外で出塁してスタミナ消耗するより、三振でも良いのでフルスイングでホームランを狙う方がベター」と考え、レフトスタンドに2点本塁打を放ち、水野から甲子園で初めて本塁打を打った選手となる(自身、この大会2本目の本塁打)。決勝では横浜商業高校を3-0と下して優勝を飾り、学制改革以降最年少優勝投手(15歳)の記録を立てた。1年生投手が夏の甲子園の決勝に駒を進める例は坂本佳一、荒木大輔のように過去にもあったが、いずれも準優勝に終わっており、桑田はそのジンクスを破ったことになる。また、この夏の甲子園の活躍により1年生で唯一、全日本高校選抜メンバーに選ばれ、アメリカ遠征を経験した

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%91%E7%94%B0%E7%9C%9F%E6%BE%84#%E9%AB%98%E6%A0%A1%E6%99%82%E4%BB%A3

高校時代

【池田vs PL学園】桑田完封、清原4三振、水野3被弾、甲子園の主役校が代わった名勝負!

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