桑田真澄
format_quote桑田 真澄(くわた ますみ、1968年4月1日 - )は、大阪府八尾市出身の元プロ野球選手(投手)、野球解説者・野球評論家、コーチ。現在は読売ジャイアンツ一軍投手チーフコーチを務める。
学位はスポーツ科学修士(早稲田大学大学院・2010年)。高校野球甲子園戦後最多勝利数投手。
ゴールデングラブ賞を投手最多タイ記録となる計8回受賞している[1]。
PL学園高校時代は、清原和博との「KKコンビ」でチームをけん引し、甲子園通算20勝の戦後最多記録を保持する。プロ入り後は先発投手として読売ジャイアンツを支えた。
2007年にピッツバーグ・パイレーツで現役を引退してからは、フリーランスの野球解説者として活動するかたわら、早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修士課程で修士(スポーツ科学)を取得した。また、指導者講習会を主催する特定非営利活動法人「アミーチ・デル・クオーレ」[注釈 1]理事長、ボーイズリーグの麻生ジャイアンツ会長、東京大学運動会硬式野球部の特別コーチのほか、日本野球機構(NPB)「統一球問題における有識者による第三者調査・検証委員会」の特別アドバイザー、PL学園硬式野球部OB会会長を務める。出典:Wikipedia
event_note 2022/02/14 11:44
【#桑田真澄 / プレイバック】桑田完封、甲子園の主役校が代わった名勝負!池田vs PL学園
1983年4月、PL学園高等学校に入学した。清原以外の同期では、松山秀明、今久留主成幸、内匠政博の3人がプロ入りしている。6月にレギュラー組に昇格。夏の甲子園に向けた大阪大会に背番号17番で清原、田口とともに1年生としてメンバー入り。「もし桑田を先発させて負けるようなことがあったら全責任はワシが取ろう。ワシも長いこと野球に関係して来たが、この試合は桑田や。これで負けたら、ワシは一切野球から足を洗おうやないか。」と中村へ桑田先発を進言。
format_quote桑田らが入学する前のPL学園は、1981年、1982年と春のセンバツを連覇したが、夏は4年連続(1979年-1982年)で甲子園出場を逃しており、1983年のV奪回は至上命令だった[22]。この年のPLは投手陣が安定せず、中村順司監督は、市神港高校・報徳学園の野球部監督として春4回、夏4回の甲子園出場経験があり、神戸製鋼の監督として都市対抗野球でも優勝(1977年)した清水一夫を臨時投手コーチとして招聘する[23]。この清水が桑田の外野からの返球を見て、球の回転の良さに驚き[24][25]、「おい、凄いのがおるじゃないか。学年など関係ない。私が夏までに立派なピッチャーにしてみせる」[26]と発言し、桑田を投手に戻す。清水コーチのマンツーマンの指導が始まる[注釈 5]。清水は後に「下半身が発達していながら、その使い方を知らなかった。だから足腰、膝の使い方を教えた。それだけでよかったんです。腕のしなり、天性の肩の強さは惚れ惚れするほど。毎日、私が桑田の球を自ら受け、一日、一日成長してゆくのが手に取るように分かったものでした。球の切れ、伸び、変化球の絶妙な使い方、どれをとっても素晴らしかった。そして、どんな過酷なトレーニングにも泣きそうな顔をしながらついて来た、見事な意志の力。私を恩人と今も慕ってくれているが、私としては『この子を使わん手はない』とコーチとして考えただけのこと。」[27]と述懐している。
高校時代